とけちるのブログ

今までのこと、日々のこと、思うこと。

自分が生きやすくなることは、悪なのか?

拝啓、親愛なるフォロワー様。

いかがお過ごしでしょうか。

随分と肌寒い日が増えましたね。

わたしは今日、久しぶりに外を散歩しました。

ちょうどいい温かさの陽射しと、程よくつめたい風がすり抜ける心地良さ。

雲ひとつない澄んだ空を見上げるようにして歩きました。

住宅地で金木犀を見かける度にマスクを取って匂いを秋風と共に吸い込み、小さな公園でシーソーを揺らす親子を眺め、学校から聞こえる賑やかな子供たちの声を耳にして。五感が喜んでいるのがわかります。

今日は久しぶりの通院でした。

社保への切り替わり等あって、前回のカウンセリングから1ヶ月も経ってしまいました。

次の通院の日に保険証が間に合わず、夜勤なので昼間に病院へ行くことはかなり睡魔との闘いになるので正直かなり億劫で、一時期やる気を失ってましたがなんとか今日は行きました。

そこで、今回のカウンセリングで得た気づきなどがありましたので、忘れないうちに記録をしておこうと思います。

仕事は引き続き、今も順調に続いています。

連休がなく、夜勤なので、日常のほとんどを胃を満たし、眠ることだけに費やしてます。

ゲームもしなくなり、活字も読まなくなり、帰宅したらご飯を食べながら少しアニメを見るくらい。

それでも、なんとか日々の支出を自分で賄えるようになったということは自分にとってとても大きなことで、特に大きく落ち込むこともなくなり、ただ忙殺されている日々を送る毎日。

そんな感じで近況を心理士さんに語りました。

「とけちるさんは、世間一般がそうであるように、働けるようになりたいといつも強く願っていましたよね。いま、その地点にようやく立つことができて、ここから先、【仕事プラスアルファの何かがほしい】と考えていたりしますか?」

みたいなニュアンスの問いを投げかけられたような気がします。

え、プラスアルファ?

わたしは何も思いつきませんでした。

ここから先の人生、別に成し得たい何かがあるわけでもなく、何になりたいわけでもない。

そもそもわたしは最初から食いっぱぐれなければなんでもいいのだ。

毎日仕事に行くという使命をこなし、自分はちゃんとやれていると自分を言い聞かせることができたらそれでいい。

吹けば飛ぶような零細企業の末端社員だから一生安泰というわけではないけれど、とりあえずいきなりは倒れないだろうし、倒れたとしても、突然ひっ迫するほど苦しくはならないだろう。

全く検討もつかないわたしに対し、心理士さんはこう続けた。

「とけちるさんは、今のご自分のことを《普通》だとよく仰いますけど、私はそんな事ないと思います。苦しくて、元気の無い状態からいきなり毎日働くようになって、しかも今もそれを続けている。それってとても凄いことだと思いますよ。自分のことを褒めていますか?とけちるさんは物理的安定は獲得できて、地盤を固める力ができてきていると思います。今後、より生きやすくなるために、どう考えていったらいいのか。そこが仕事プラスアルファだと私は考えました」

わたしは仰天しました。

なるほど、、と。

仕事ができればいいと思ってたけど、そうじゃないんだな。

皆さんにとっては当たり前かもしれませんが、仕事ができなかったわたしにとって、仕事ができるということは全てであり、ゴールに近かったかもしれません。

目標を達成したつもりでした。

で、思考を整理するがてら、散歩しながら帰ったのですが、

まず、「自分がより生きやすくなるために」というスタートに立つためには、わたしは自身の思考を大きく転換させる必要があるなと思いました。

何故なら、そんなこと本当に考えていいのか、わたしがそんなことをかんがえるのは烏滸がましいのではないかと、常々考えていて、たとえば今回でいえば心理士さんなどから提案いただいても、その考えが邪魔をしていつもスタートにすら立てないのです。

たとえるなら、これから冬のめちゃくちゃ寒い時期になったりするとお湯で手を洗ったりしますよね。そのとき「わたしなんかがガス代を消費してお湯を使っていいのだろうか?手先がキンキンに冷えようともわたしは真水を使うべきなのではないか?わたしは辛い思いをして然るべき人間なのではないか?そもそも手先が冷えるのはわたし自身の体質のせいであって、それゆえにしんどい思いをするのは自業自得なのでは?なのにお湯を使いたがるなんて甘えなのでは?」などと葛藤し、自分にとってベターな選択を取ろうとする自分を許せないのです。

ばかばかしい話なんですが、こんな押し問答をもう10何年も自分の中で繰り返しています。

この「自業自得なのだから弱音を吐いてはいけない」「現状を受け容れなければならない、目を背けてはならない」理論と、そもそも圧倒的に「自分が嫌い」で自分が許せなくてもっと苦しんで然るべき理論が組み合わさってどうしようもない。

で、自分が嫌いだから、せめて普通になりたくて、それがきっと働くこと。

あと、自分の美学に沿った生き方がしたくて、それが「タフでありたい」みたいな考えがあって。

それは「みんな苦しいなりになんとか生きてんだからお前も頑張れ」みたいな何気な〜く投げかけられた言葉が何年もわたしのなかに残って発酵して呪いとなった考えで、そういう増長された誰かの言葉や考えがずっと背中をちくちく刺してくるような感覚がずっとある。

だから許せない。生きやすくなんてなっていいわけがない。

許されたい。がんばりたくない。わたしは充分頑張っている。もうがんばれない。

まあこんな感じでいつも脳内は二手に別れて喧嘩しとるわけです。

で、皆さんお気づきの通りなんですが、わたしも思いました。

合理的じゃなくね?と。

意味ある?その縛り。誰の為?

タフさってなんだろうか。

苦しみ抜くことだけがタフではないよな。

てかその言葉ってどこからきたの?

自分に必要ない言葉なんて聞かなくていいから。

耳を傾けるべきとか、目を背けちゃいけないとか、そんなとこで真面目さ発揮しなくていいから。努力の方向音痴か。

自分を苦しめるということは、自分を大事に思ってくれている人たちの気持ちを蔑ろにするということ。

そうまでして大事にすべきことなのか。

本当に大事なことってなんだ。

自分の守りたいものってなんだ。

守りたいものを守れるようになりたい。

そうなるためには、どうしたらいいのか。

、、、などなど思案して

「あーやっと人生のスタートに立てるかもしれん」

などと思ったところで帰宅しました。

 

次回のカウンセリングまでに

どういう場面で自分を責めてしまうか、または責めずに済んだか。

何故そうしてしまったのか、またはせずに済んだのか。

そのときの思考の癖など

その点に意識して生活してみてください。

と、カウンセリングを始めて1年半経ち、初の宿題をもらったので、まずはそこからやってみようと思います。

自己肯定感チャレンジ、果たしてどうなるか。