とけちるのブログ

今までのこと、日々のこと、思うこと。

2022夏の生存確認

こんにちは、とけちるです。

みなさまお元気でしょうか?

わたしはというと、突然の報告になりますが来月転職する事になりました。

事の発端はのーさんが貯蓄が尽きたと言ってきたこと。

そのために生活がひっ迫どころじゃなくなり、パートタイマーから正社員に、ということで。

急ぐ必要がなければもう少し今の職場に留まりたかったのですが、この1年半、僅かながら心身が整ってきたように感じるので、このマインドを保てたら次もいけるでしょう。と思っています。

そもそも1年半、仕事が続けられたということが自分にとってはめちゃくちゃ快挙で、しかも転職先も決まってて、契約にある通り一ヶ月前からちゃんと辞めますと言えて、残念だけど頑張ってねと言ってもらえて、こんなに円満に退職するのも初なんですよね。

みなさまにとっては普通で、ありふれたことかもしれないんですが、ただ生きるということが困難だったわたしにとって、これはもの凄いことなのです。

今日は「これは事務のみんなからです🥺」って色々いただいてしまって。そういうやりとりももちろん人生で初めてだったし、こういった出来事は自分には無縁だと思ってたので、なんだか「人間」になれた気がして嬉しかったです。

心身を整えた1年。次の1年は生活力がほしいな。

そしていつか3人で暮らしたい。

許されるなら何年かかっても諦めたくない。

できるだけはやく、でも焦らないで着実に。

目の前のできることをやっていきたいと思います。

娘はというと、養育支援里親さんの元での生活が徐々に始まっておりまして、もうすぐ移行完了するそうです。来月また会えるようなので楽しみです。娘が元気。それが本当に救いになってます。

今回はちょっとでも良い報告ができた投稿になったかな。

暑い日が続いておりますのでみなさまもご自愛くださいね。

そして転職先でもいい感じにやっていけるよう祈ってください🥲笑

年末、焦燥、危機感。

ご無沙汰しております、とけちるです。

みんな元気〜?

今日は近況と全然関係ないただの独り言になってしまいましたがよかったら読んでってください。

あったかくしてますか?ご飯はちゃんと食べてますか?

今日も生きててえらい。

今年生き抜いてえらい!!!!

 

なんか年末ってざわざわしませんか?

何も成せないまま、何者にも成れないまま

また1年が終わってしまう。

そんな気持ちになってしまうのです。

 

今年、そんな気持ちをすこし和らげる出来事がありました。

なんと、明日で仕事納めをしようとしています。

3月に始めた仕事、続いてます。

これは、個人的にはかなりの快挙で

結構、いやとても、嬉しい限りです。

20代最終局面に差し掛かり、念願の安定した収入。

パートなので僅かながらになりますが

乾涸びていたわたしの財政が少しずつ潤い、

それにつれてわたしは人間性を取り戻した気がします。

人としての尊厳っていうか、

生きてていいんだなって思えるようになったというか。

そう思えるようになってから見えるものって色々変わったんですが、そのひとつがSNSでした。

 

昨日トレンドで見た「SNS上で知り合った男性に精子提供をしてもらったが、男性の学歴が既知と異なったため訴訟した女性」がニュースに取り上げられてまして。

そのニュースにぶら下がる、罵詈雑言の数々。

多数が悪だと見なした人間はサンドバッグにしてもいいんでしょうか。

その女性がやったことの善悪に限らず、その女性が大多数に罵られている様子がとても怖かった。

女性がその男性との間に授かったお子さんは、いま児童福祉施設にいるそうです。

その情報は必要だったのでしょうか。

ただ単に民衆の「児童福祉施設を利用する人間は悪人だ」「児童福祉施設は不幸な子が行くところ」という認識を強めるだけだったのでは。

人それぞれに事情があります。

どこで育ったら幸せかなんて誰にもわかりません。

擁護しろというわけではないですが

でも、施設を利用する=悪いこと

みたいな認識は

【隙間に落っこちた人間は救われるべきではない】

と言われてるみたいで悲しいのです。

 

長くなったし最終的に

何が言いたいのかわからなくなった(×-×)

自分にとってはとても身近な

児童福祉施設」という言葉なので

敏感に反応してしまいました。

 

とにかく、えーと、つまりは

SNSでも向こうにいるのは人間ってこと

忘れないでいたいですよねーって感じ

 

みんながみんなそうじゃないのは知ってるの

どの界隈でもそうだから、、、

強い言葉は目立ってしまうし

だからこそ使い方を考えて欲しいなって思いました

 

来年はもっと

みんながみんなに優しくなれる世界になるといいなあ

 

 

里親制度を利用する方向へ

こんにちは、とけちるです。

今回は、まあ一言で言うとタイトルの通りなので

そういう話は目にしたくないなあと思う方は閉じてくださいね。

 

わたしを含む周りも

(のーさんも乳児院も支援センターも)

娘が4歳になる年(満3歳クラス)になる頃

迎えに行って3人で暮らすことを目標に

今まで動いてきました

 

それは前回も話したっけ?

まあいいや、復習も兼ねて

 

それで、ずっとわたしも

認知の歪みを少しでも改善させるために

カウンセリングに通って

服薬もちゃんと指示通り毎日飲んで

嫌いな漢方も欠かさず飲んで

わたし自身がもっと満たされて

余裕のある人間にならないと

育児ができるようにはならないって思って

自分の心が頑丈になるように

折れても修復する期間が短くなるように

ずっと頑張ってきて

それでも、中々調子が安定しなくて

間に合いそうにない。という判断に至りました

 

とはいえ、娘ももうだいぶ大きくなってきて

施設暮らしだと年齢を重ねるにつれて

移動(引越し)を余儀なくされる可能性が高い。

それなら、今のうちから里親制度を利用

されてはどうか、という提案を

支援センターの方からしていただきました。

 

娘にとっても、

その方がいいと思うし

わたしは正直、その話を聞いたとき

嬉しかったんですよ。

嬉しかったというと違うかな。

あーよかった、みたいな。

 

いま、ちょっとほんとに調子が良くない時期みたいで

頑張りたいのに毎日生きるだけで精一杯で

自分のせいで娘を不幸にする(している)んだなと

ずっと考えてたので。

母親としてしっかりしなきゃいけないってプレッシャーが

仲間が加わったことで分散されたみたいな気持ちです。

 

まだ支援センターの担当の方と施設の職員さんと

わたしたち夫婦を交えた協議で合意しただけなので

こういった支援制度も当事者になるのは初めてだし

どういうスピード感で話が進んでいくのか

今は全くわからないのですが

進展があればまた記録しにきますね。

 

娘との面会の頻度も週一から変わります、たぶん。

緊急事態宣言もあって対面での面会は

そもそもできてないんですけどね、、

 

こちらの都合で振り回して

娘には申し訳ないですが

これからも周りの力に助けられながら

自分のできる限りを尽くして

娘の成長を見守っていきたいと思います。

 

追記

ここで言っている里親とは

「養育里親」のことで、

養子縁組を前提としない里親のことです。

なので娘と縁が切れるわけではなく

娘を迎えに行きたいという目標は

変わっておりません。

言葉が足らずにぎょっとさせた方には

申し訳なかったです。

 

 

まだ生きている

最近のツイートが不穏だったので大体知られていると思いますが、ここのところ調子が良くありません。

暑くもなってきたし、普通の人でも生きるのしんどいですよね。

さて、わたしが落ちていた理由ですが、色々ありますがひとつに自分の変化ですね。

これまで自分の状態を良くなることが娘のためになると信じて、自分の心身を良くすることに注力していました。

で、去年は3ヶ月だけどフルで働けたし、今年もフルではないけど自分のできる範囲で働き始めて休むことなく通えて。

ちょっとずつ、良くないときもあるけど、確実に良くなってきていました。

良い悪いの振れ幅が大きかったのも、段々その波が小さくなってきたし。

そしてわたしは気づいてしまったんですよね。

これ、寛解に近いんじゃね?と。

順調に仕事も慣れて、家事もして、寝込むことも、布団から起き上がれないこともなく、順調に物事が進めば進むほど、限界が近づいてるんだ、って感じていました。

これ以上、劇的に良くなることは無い。これ以上は、小さな良くなったり悪くなったりを繰り返していくだけで、完治しなくて、一生病気のままなんだって。

こんなに心身が良くなったのに、育児的な余裕は未だに一切ないんですよね。

で、宣言もあけて外泊進めましょうってなって。

いや無理!そんな余裕ない!→でもやらなきゃ→いや無理!を心の中で最近ずっと繰り返して、板挟みで、もうどんどんメンタルやられていって。

育児無理とか最低だ。母親無理なんだ。やめるべきだ。価値のない人間なんだ。と追い詰められていき、絶望していました。

そして今日、施設の職員さんに話をしました。

現状、面会が精一杯なこと。

わたしがメインで育児をするのは難しいこと。

泣かないって決めてたのに泣いてしまいました。

やりたいこととやらなきゃいけないこととできることが解離してるとしんどい。

できる範囲で。それでいい。って最近は諦めっていうか開き直りというか上手だったはずなのになんでもっと頑張れないんだろうって爆発してしまいました。

職員さんは「話してくれてありがとう」って言ってくれました。

宿泊を薦めることがプレッシャーになってないか心配でした、と。

「いまできることをやってくれたらいいんですよ。宿泊ができなくても、面会だけでも。娘ちゃんの成長を見守ることができるなら」

と言ってもらえて、涙し、職員さんがもらい泣きして、それ見てまた涙涙、、

わたし、母親やめなくていいんだ。てっきりもう失格になるんだと思ってたんですよね。娘も物心ついてくるし、今後面会もしない方がいいのかなって思ってたから。いいんだ、まだ娘と関係を続けていけるんだと思って、安堵してる自分がいて、あーわたし娘のことちゃんと好きなんだなってなんか安心しました。

と、いうわけで。ともかく、わたしは育児をしなきゃ!をやめました。

当面、今後の娘とのことはのーさんが主体となって動くことになります。

わたしが主体だとまたあれこれ考えすぎちゃって病むので。。

それで、Twitterも離れます。

落ち込み気味なときほど、何も手につかないし、でもざわざわするからついついSNSに手を出しがちで情報過多になってしまうので。

この育児垢は妊娠中のときから思い入れがあり、フォロワーさんもみんな好きなので、消す勇気はありませんでした😌

みなさんも、どうかがんばりすぎないで、いろいろな幸せの形があっていい世の中に、みんなが幸せに暮らせますように。わたしも程々に生きます。

希望の種

5月からフォロワーさんのお子様が続々と誕生日を迎え、自然とママ垢のTLがほっこりするこの時期が、わたしは好きです。

うちの娘も明日が誕生日。

宣言中なので会えませんがリモート面会を設けてくださいました。ありがたい限りです。

今日観た映画に「希望の種」というフレーズがありました。

「叶わなかった願いは希望の種になり、自分が諦めない限り未来の希望になり続ける」と。

コロナ禍という事もあり、色んなことを我慢して、出来ないことがたくさんあって。でもそれをマイナスで終わらせずに未来の希望にしていくことができる。コロナが流行る前の映画ですが、じんときました。

わたしは昔から「出来ないことより出来たことを褒めよう」って言葉を目にすると「出来なくて悲しかった気持ちはどこへやればいいんだろう」と思うことがありました。勿論出来たことを褒めるってこと自体はとても大事なことなんだけども。

そういう気持ちをおざなりにしないで、尚且つ前向きに思考を変換することができる、いい考え方だなと思いました。

子供のころから未来に希望を持つって苦手で、今でも早く死ぬに越したことはないって思うんですが、大事な娘がいて、会いたいと思える親友がいて、その人達とまた会いたい。だから生きてます。

そういう希望の種をあちこち散りばめて希死念慮に抵抗していけたらいいなと思いました。作文か。

2021春の現状

どうもです。

早いもんで2021年の春も終わろうとしていますね。

 

ブログでは半年間ほどだんまりを決め込んでおりましたが現状報告がてらと、ようやく腰をあげました。

Twitterに載せた報告と重なる部分がありますが、前回の投稿から順を追って説明しますと、去年夏から働き始めた職場は冬で辞めました。

理由は色々ありますが、社員を大事にしない小さな会社に縋り続ける必要はない。

と思った事が大きいです。

辞めてから燃え尽き症候群になったり焦って空回りしたりもありましたが乗り越えて2021年入ってすぐ今の会社の面接に受かり、3月に研修を終え、今月の4月から働いてます。

昔を思えば、どんどん良くなってきてる。

カウンセリングに通うようになって、励まし続けてもらった結果、自責も減りました。

でも正直なところ、まだ毎日育児をするビジョンが全く想像できません。

今後そんな未来が来るのかどうかも、今の段階ではわからないとしか言えない。

子供の成長は待ってくれない。

焦りが募ります。

でも余裕がない、出来そうにないなんて弱音を吐くこともできず。

言ってしまえばいいんでしょうけど、後ろめたさがあって言えません。

まだそんな状況です。

焦っても仕方がない。

そんなにいきなり劇的に変化するわけがない。

わかってはいるのだけど。

でも少しずつ、少しずつ良くなってきているので、進展していると信じたい。

もうちょっと書きたいことがあったんですがまとまらないので今回はこの辺で。

いつも見守ってくれてありがとうございます。

皆さんもいつもお疲れ様です。

自分が生きやすくなることは、悪なのか?

拝啓、親愛なるフォロワー様。

いかがお過ごしでしょうか。

随分と肌寒い日が増えましたね。

わたしは今日、久しぶりに外を散歩しました。

ちょうどいい温かさの陽射しと、程よくつめたい風がすり抜ける心地良さ。

雲ひとつない澄んだ空を見上げるようにして歩きました。

住宅地で金木犀を見かける度にマスクを取って匂いを秋風と共に吸い込み、小さな公園でシーソーを揺らす親子を眺め、学校から聞こえる賑やかな子供たちの声を耳にして。五感が喜んでいるのがわかります。

今日は久しぶりの通院でした。

社保への切り替わり等あって、前回のカウンセリングから1ヶ月も経ってしまいました。

次の通院の日に保険証が間に合わず、夜勤なので昼間に病院へ行くことはかなり睡魔との闘いになるので正直かなり億劫で、一時期やる気を失ってましたがなんとか今日は行きました。

そこで、今回のカウンセリングで得た気づきなどがありましたので、忘れないうちに記録をしておこうと思います。

仕事は引き続き、今も順調に続いています。

連休がなく、夜勤なので、日常のほとんどを胃を満たし、眠ることだけに費やしてます。

ゲームもしなくなり、活字も読まなくなり、帰宅したらご飯を食べながら少しアニメを見るくらい。

それでも、なんとか日々の支出を自分で賄えるようになったということは自分にとってとても大きなことで、特に大きく落ち込むこともなくなり、ただ忙殺されている日々を送る毎日。

そんな感じで近況を心理士さんに語りました。

「とけちるさんは、世間一般がそうであるように、働けるようになりたいといつも強く願っていましたよね。いま、その地点にようやく立つことができて、ここから先、【仕事プラスアルファの何かがほしい】と考えていたりしますか?」

みたいなニュアンスの問いを投げかけられたような気がします。

え、プラスアルファ?

わたしは何も思いつきませんでした。

ここから先の人生、別に成し得たい何かがあるわけでもなく、何になりたいわけでもない。

そもそもわたしは最初から食いっぱぐれなければなんでもいいのだ。

毎日仕事に行くという使命をこなし、自分はちゃんとやれていると自分を言い聞かせることができたらそれでいい。

吹けば飛ぶような零細企業の末端社員だから一生安泰というわけではないけれど、とりあえずいきなりは倒れないだろうし、倒れたとしても、突然ひっ迫するほど苦しくはならないだろう。

全く検討もつかないわたしに対し、心理士さんはこう続けた。

「とけちるさんは、今のご自分のことを《普通》だとよく仰いますけど、私はそんな事ないと思います。苦しくて、元気の無い状態からいきなり毎日働くようになって、しかも今もそれを続けている。それってとても凄いことだと思いますよ。自分のことを褒めていますか?とけちるさんは物理的安定は獲得できて、地盤を固める力ができてきていると思います。今後、より生きやすくなるために、どう考えていったらいいのか。そこが仕事プラスアルファだと私は考えました」

わたしは仰天しました。

なるほど、、と。

仕事ができればいいと思ってたけど、そうじゃないんだな。

皆さんにとっては当たり前かもしれませんが、仕事ができなかったわたしにとって、仕事ができるということは全てであり、ゴールに近かったかもしれません。

目標を達成したつもりでした。

で、思考を整理するがてら、散歩しながら帰ったのですが、

まず、「自分がより生きやすくなるために」というスタートに立つためには、わたしは自身の思考を大きく転換させる必要があるなと思いました。

何故なら、そんなこと本当に考えていいのか、わたしがそんなことをかんがえるのは烏滸がましいのではないかと、常々考えていて、たとえば今回でいえば心理士さんなどから提案いただいても、その考えが邪魔をしていつもスタートにすら立てないのです。

たとえるなら、これから冬のめちゃくちゃ寒い時期になったりするとお湯で手を洗ったりしますよね。そのとき「わたしなんかがガス代を消費してお湯を使っていいのだろうか?手先がキンキンに冷えようともわたしは真水を使うべきなのではないか?わたしは辛い思いをして然るべき人間なのではないか?そもそも手先が冷えるのはわたし自身の体質のせいであって、それゆえにしんどい思いをするのは自業自得なのでは?なのにお湯を使いたがるなんて甘えなのでは?」などと葛藤し、自分にとってベターな選択を取ろうとする自分を許せないのです。

ばかばかしい話なんですが、こんな押し問答をもう10何年も自分の中で繰り返しています。

この「自業自得なのだから弱音を吐いてはいけない」「現状を受け容れなければならない、目を背けてはならない」理論と、そもそも圧倒的に「自分が嫌い」で自分が許せなくてもっと苦しんで然るべき理論が組み合わさってどうしようもない。

で、自分が嫌いだから、せめて普通になりたくて、それがきっと働くこと。

あと、自分の美学に沿った生き方がしたくて、それが「タフでありたい」みたいな考えがあって。

それは「みんな苦しいなりになんとか生きてんだからお前も頑張れ」みたいな何気な〜く投げかけられた言葉が何年もわたしのなかに残って発酵して呪いとなった考えで、そういう増長された誰かの言葉や考えがずっと背中をちくちく刺してくるような感覚がずっとある。

だから許せない。生きやすくなんてなっていいわけがない。

許されたい。がんばりたくない。わたしは充分頑張っている。もうがんばれない。

まあこんな感じでいつも脳内は二手に別れて喧嘩しとるわけです。

で、皆さんお気づきの通りなんですが、わたしも思いました。

合理的じゃなくね?と。

意味ある?その縛り。誰の為?

タフさってなんだろうか。

苦しみ抜くことだけがタフではないよな。

てかその言葉ってどこからきたの?

自分に必要ない言葉なんて聞かなくていいから。

耳を傾けるべきとか、目を背けちゃいけないとか、そんなとこで真面目さ発揮しなくていいから。努力の方向音痴か。

自分を苦しめるということは、自分を大事に思ってくれている人たちの気持ちを蔑ろにするということ。

そうまでして大事にすべきことなのか。

本当に大事なことってなんだ。

自分の守りたいものってなんだ。

守りたいものを守れるようになりたい。

そうなるためには、どうしたらいいのか。

、、、などなど思案して

「あーやっと人生のスタートに立てるかもしれん」

などと思ったところで帰宅しました。

 

次回のカウンセリングまでに

どういう場面で自分を責めてしまうか、または責めずに済んだか。

何故そうしてしまったのか、またはせずに済んだのか。

そのときの思考の癖など

その点に意識して生活してみてください。

と、カウンセリングを始めて1年半経ち、初の宿題をもらったので、まずはそこからやってみようと思います。

自己肯定感チャレンジ、果たしてどうなるか。