とけちるのブログ

今までのこと、日々のこと、思うこと。

わたしの成り立ち

筆が乗っているのでこのまま2記事目も書こうと思うんですが、まずは何から書こうかな。いざとなると悩みますね。

自己紹介がてら、まずはわたしのことを色々書いていくことにします。

わたしは、長男の父のもとに生まれ、父方の祖父母、父母、わたし、妹の6人家族で育ちました。最初は。

父にはふたりの弟がおり、わたしはふたりともに良くしてもらいました。堅物の次男さん、おちゃらけた三男さん、どっちも好きでした。2人が巣立つまで実家である我が家にいたので、幼少期は結構人の多い、どちらかというと和気あいあいとした賑やかな家でした。

祖父は、キレやすい人でした。ガタイがよく、強面で、声も大きい。そんなひとがキレるとどうなるか。昔は雷が落ちると比喩されたものですが、まさにその言葉の通りで。祖父に刃向かえるのは祖母のみですが、一度火がつくと誰にも止められません。みんなで鎮火するのをただただ待ちます。

祖母はタフな人でした。両親と若くして死別し、男3人育て上げた人です。性格はさっぱりしていて、人当たりがよく、祖父と仲が良く、いつも動いてて家にいない人でした。このパーフェクトヒューマンがのちに、洗濯機の回し方もわからないわたしの父を生むことになります。

 

幼い頃のわたしは、祖父っ子であり、それ以上に母っ子でした。

父はあまり喋らない人なのでよくわからないし、わたしには母が拠り所となっていました。わたしは母に抱きつくことが好きで、この上ない安心感を得ていました。

その母は、次第に壊れてゆき、そして家族も壊れることになります。

母は、祖父と折り合いがよくありませんでした。そして徐々に、実家に寄り付かなくなりました。母が居ないことはさみしかったけど、母が笑顔取り戻せる場所が、実家でなく外にあるのなら仕方ないと思っていました。夜になると、明かりを求めるように外へゆき、朝になると父に「お弁当代」と、お金を渡すだけのために一旦帰ってきます。この頃の母は、まるで手品のように次々とお金を出していました。もちろん手品なんかではありません。

そんな母を、祖父が許すはずありません。とある朝、わたしは学校に行く前、朝ごはんを食べていました。そしたら母がふらっと帰ってきて、お皿を洗いに台所へと向かいました。そのとき、祖父と鉢合わせてしまい、祖父は、最初は静かに喋り始めました。沸騰してはいけないと、祖父なりにセーブをしていたのでしょう。母への不満を並べる祖父に対し、母は眼前に歩み寄りました。「今は子供の前だから」そう言いながら祖父の胸へ置こうとした母の手を、祖父が掴みました。鮮明に、覚えています。

我慢して我慢して、爆発しないようにしていたのに、張本人が逆撫でしてきたのですから、当然大爆発しました。

取っ組み合いになり、そうなって初めて、父がふたりの間に割ってはいりました。実は父、ずっとその場に居ました。

「お父さん、やめて」という、父の弱々しい声を耳にしたとき、祖父が今までどれだけ恐怖政治を強いてきたのか、小学生のわたしでも一瞬で理解できました。

その父の、あまりの頼りにならない様子や、冷戦状態だった祖父から手を出されたことにより、裂け目からびりびりヒビ割れ、家族関係は完全に修復不可能であることがそのとき確定しました。

母は泣きながら2階へ逃げて、わたしは座ったまま、静かに泣いていました。終わったんだと。今まで、見ないようにしてきたのに、うまくいかないとわかっていても、終着点を先延ばしにすることでだらだらと続けてこられた家族関係だったとしても、それが、わたしには全てだったから。

祖父も、母も、どっちも大好きだったから、大事だったから、そのふたりがぶつかり合う様を見るのが本当につらかったです。

母は家を出ました。わたしはそうなることがもう何年も前から予想出来ていたので、つらかったけど、受け入れることは容易でした。

でも、妹は母に捨てられたことで、深く傷つき、壮絶な反抗期を迎えます。

ここからが、本当の戦いの始まりでした。

父は父で、傷ついていたのでしょう。ショックだったのかもしれません。それから人が変わってしまいました。誰彼構わずお金を無心するようになり、盗んだり、騙したり。もちろん祖父母からも借金をし、祖父母の貯蓄を喰らい尽くして、祖父は毎晩、父を叱り、祖母は泣いていました。そんな様子が日常化したのが中学時代の頃でした。わたしは妹のように、外へ向き、悪い友達とつるむ勇気が、これ以上家族を崩壊させる勇気がありませんでした。布団を頭から被り、祖父の怒鳴り声が止むのを祈り、幸せな家庭というものに、恋焦がれるようになりました。

誰だけが悪いというわけではなく、みんながみんなの足を引っ張り合うように、ずるずると家族で地獄に落ちてゆきました。

つらいときには支えあって、嬉しいことはお祝いして笑いあって、そんな家庭は幻想だと思ってました。そういったありふれた家族の話を耳にすると、今でも、心の奥の膿んだ部分がじくっとします。

色々と端折りながらですけど、学生時代はざっとこんな感じで、わりと壮絶な人生を送ってきまして、小学生の頃には希死念慮がありました。

原因不明の体調不良もよくあり、虚弱で、不眠がちでした。

だけどメンタル的には、折れてませんでした。自分だけが頼りだったし、問題がいつも自分の外にあったので、自責するということもありませんでした。

心が折れるのは、もう少し先のお話。